ライターのランドール

とってもくだらない事しか書かないかもしれない、いやブログなんてそんなもんか

日本の中世の武士社会

日本の中世と聞くと、活気盛んで文化的な時代と想像するであろう。武士が台頭し、連歌が生まれたり、茶飲みの文化ができたりと、華やかな時代のように見える。しかし、年表を見てみると、数年に1回の頻度で戦いが起こっている。どういうことなのだろうか。


これを知るために、武士のことを知っておく必要があるだろう。では、武士とはどのように生まれ、どういう立場にあったのか、見ていこうと思う。



〇武士の起源


武士は複数の起源を持つが、その中でも農民から生まれたものと、貴族の防衛軍としてうまれたものを見ていく



1 農民から武士へ


平安時代の摂関期、都の貴族たちは都のための政治を行うようになり、国司などの地方に配属された貴族も基本的には都に居座るようになっていた。このような状態が続くと、次第に地方の治安が悪くなり、現代でいう犯罪行為が増えていくことになった。そこで、その地域の有力農民がまず武装するようになった。これが、武士の起源の一つである。その後様々な農民が武装するようになっていった。



2 棟梁


摂関期に入ると、日本の中での争いが増えるようになっていった。国全体の治安低下を受け、朝廷や貴族は軍を保有する必要性がでてきた。そこで、4位から5位の下級貴族をトップに置き、そこから軍団を作るという組織ができるようになっていった。そのような家のトップを棟梁と呼び、こうして都の武士団が形成されていった。



以上の主な2つが武士の起源であるが、どちらも社会情勢の悪化を受けて成り立ったものである。ではここから中世の武士に話していこうと思う



〇中世の武士



時代は鎌倉、院政期が過ぎ、平家の台頭が終焉を迎えた後、武士を管理するための行政機関として幕府が成立した。幕府の上官は(元)貴族である程度構成されていた、というのも、その頃の武士の大半は農民出身であり、読み書きの能力は著しく低かったからである。とはいえ、御家人または地頭と呼ばれた有力武士は元々農民であるケースが多く、書面での契約が難しかった。そこで、御恩と奉公というものができるのである。


御恩と奉公


この言葉は小学生の頃から聞くだろうが、勘違いして理解しているケースが多いであろう。御恩と奉公とは、御家人が働いてその分の給与を受ける訳では無い。給与をまず与えてその分働くというものである。つまり、金や土地で御家人を従えていたのである。

しかし、何故御恩を受けて、奉公するというシステムになったのだろう。それは、御家人とはヤンキーみたいなものであるからである。ヤンキーに言うことを聞かせるには、まず先になにか与えなければならない。


御家人ですらヤンキーなら他の武士はどうだろう。そうヤンキーなのである。中世の武士はヤンキー集団であり、武士団とは東京卍會のようなものである。いやもっとタチが悪いであろう。


だから常にバチバチなのである。争いが起きないわけないのである。


では室町時代はどうであろうか。


この頃も常にバチバチである。それどころか、ほとんどの平民は武装し、農民と武士が入り交じっている状態なのである。武士と農民の間の身分に名前が付くレベルなのである。


この時代を今風に例えるなら、外に出歩く者全てが拳銃やナイフを持ち歩いているのである。想像してほしい、これがどれだけ恐ろしいことなのか。


この様な状態を兵農未分離と呼び、豊臣秀吉政権まで続いた。そして、豊臣秀吉兵農分離政策を行うことで、町中に刀を持って出歩く者が激減したのである。



以上のように述べたが、華やかな時代であったのも事実である。また、中世の文化が日本の伝統文化と呼ばれることも多い。


楽しんで頂けたら幸いです^^